発売初週に購入し、その日のうちに読んでいたのに今さら書いています。
感想を書くにあたって、この本のグッときた文章を書き出しメモしていたものを読み返したのですが、読了直後から約半年が経った今、自分自身を取り巻く環境の変化だったり、人との出会いを通じて、本作の感じ方が少し変わってきたので拙いながらまとめたいと思います。
本作は「汝、星のごとく」に登場する北原先生に焦点を当てた話です。
「汝、星のごとく」を読み終わった後、本好きの友人と感想会をしていて、「北原先生は人間的にすごくいい人だけど意外と俗物的なところあるよね〜。生徒に手出してるわけだし」などと話をしていたが、その当時の感想をまんまとひっくり返されました。
というか、「汝、星のごとく」は、人を見かけやステータス、噂話、その人の置かれている状況で判断することの愚かさを描く一面もある物語だと理解したはずなのに、登場人物のことを俯瞰して客観的に見れるはずの読者(私)自身が一番偏見の目で北原先生を見てしまっていた。傲慢でした。そして読者にそれを気づかせる凪良先生の構成がすごい。なんというか、物語に奥行きを感じるんですよね。こういう作品にはなかなか出会えないのでありがたいです。
「星を編む」は三つの短編から成るオムニバス形式の小説です。「春を翔ぶ」は北原先生、「星を編む」は編集者の二階堂さん、そして最後に収録されている「波を渡る」は前作と同じく登場人物二人 (北原先生と暁海) の視点を切り替えながら描く、続編と言った感じです。
「波を渡る」というタイトルが、「潮騒、波蝕、海淵、夕凪」という章題のついた前作を思わせるのも素敵。
個人的には、やっぱり北原先生視点で描かれた過去編、「春を翔ぶ」に一番グッとくる描写が多かったです。
・今の時代、善であることと弱者であることは、ときに同じ意味を持つ。天秤はいつだって不条理に揺れ、与えた情けの分まで正しく秤られることは稀だ。
・優しさの意味とはなんでしょうか。突き詰めていくほど、それはとても残酷で厳しいものであると思えてなりません。
・「与えられる『恵み』が、きみの望む『恵み』だとはかぎりません」
同じ人間がひとりとしていないように、彼女の苦しさや喜びは彼女だけのものだ。
・萎れた花のように彼女はどんどんうつむいていき、置かれた場所で咲くことを美徳とするこの国の文化について考えた。身の程をわきまえ、謙虚で辛抱強くあれ。それが真の美しさというものであるという無形の圧。けれど置かれた場所で咲ききれない花もこの世にはある。彼女とぼくの環境は正反対なのに、ぼくは彼女の気持ちがわかる。
「春を翔ぶ」
私は誰かのことを褒めたい時に、その人のことを「優しい」と表現することがよくあります。人の性格を表す言葉をあまり知らないというのもあるけど、一番の理由は自分が持ち得ない(自分の短所)部分であると思うから。
私は今まで、正しい意味で「優しい」という言葉を使ってきただろうか。それは自分にとって都合がいいという意味ではないか。自分にかけてもらった以上の情けをその人に返しているのか。その人に対する『侮り』はないか。あるいは「自分の短所を持ち得る人だ」と断定することこそ、思い上がりなのではないか。そんなことを考えました。
また、与えられた恵みを喜ばなければいけないという義務感や、謙虚であれという言葉に対しての呪いのような重みを、これほど端的に表現できるのがすごいと思う。エッセイや評論ではいまいち言語化できなかったものを、物語の中で語られ腑に落ちた、という感じです。
・ぼくに拳を振るう父親を見て、この人も心底娘を愛しているのだとわかった。安堵する一方、愛情とはなんて不完全なものだろうという理不尽さが湧き上がる。
・誰もが誰かを想い、悪気なく身勝手で、なにかが決定的にすれ違ってしまう。このどうしようもない構図はなんだろう。これもまた愛の形だと言うのなら、どう愛そうと完璧にはなれないのなら、もう皆開き直って好きに生きればいいのだ。そうして犯した失敗なら納得できるだろう。
「春を翔ぶ」
前作でも語られた、愛について。
凪良先生の、お互いに想いあっているのにすれ違って全然報われない人間関係の描写が好きすぎるんですけど、この文章は総集編だ〜〜って感じがしましたね。一生覚えてると思う。
私が高校生のときにこの本を読んでいたら明日見さんに感情移入していたと思うし、もし私に高校生の娘がいたら父親の方の目線で読んで違った感想を持っていたと思う。当たり前だけど、人間関係ってどこから見るかによって感じ方が全然違う。損得勘定や打算を抜きにした親子だからこそ、決定的なすれ違いが起きてしまうのかもしれない。
そして時系列が前後するのですが、情景描写が瑞々しく、北原先生の心情が言葉だけでなく頭の中の光景とともに伝わってくるんですよね。
・雨降りではないが、晴れ渡ってもいない。年齢を重ねていくほど、日々はそういうものになっていく。曖昧な灰色の空の下、どちらに進めば雨に濡れないですむだろうかと雲行きを読みながら、きっと大丈夫だろう、と祈りながら歩んでいくような。
・いつの間にか雨が降りだしていて、フロントガラスを極小の水滴が覆っていく。灰と水色が混ざった空が脳内の喧騒を吸い取っていき、嵐が過ぎ去ったあと、強い波風に拐われ尽くした浜辺のような静けさがぼくを支配していく。心地よかった。ぼくは初めて自らの意思で、誰にも忖度せずに、自らの生き方を選んだのだ
「春を翔ぶ」
物語は続いていくのですが、北原先生の葛藤は以下の言葉で締め括られます。
ぼくはどんな人間なのか。なにを欲しているのか。どう生きたいのか。正答はなく、年を重ねるほどに選択肢は増え、ぼくの海は拡大し続け、混迷と共に豊穣をも謳いだす。
「春を翔ぶ」
母なる海という言葉があり、地球上に存在するすべての生き物の起源は海にあると言われているこの世界で、人の一生とか社会というものは、海みたいなものなのかもしれない。大波に飲まれないよう必死で逃げ、時に抗うことなく波間を揺蕩い、流され、波を乗りこなそうと試みては溺れ、夜の闇に怯え、命の恵に感謝する。ちなみに私はカナヅチなので、今のところ溺れてばっかの人生です。
「汝、星のごとく」「星を編む」は、海がそこにあることが当たり前の街で育った私にとって忘れられない二冊になりました。